あるピアニストの呟き - pianist TAKA -

ピアニスト・タカの音楽記録です。音楽以外の様々な話題も取り上げます。

心に在るものは今も生きている

ピアノを習い始めたのは10歳。小4の時だ。YAMAHAのアップライトで一番小さく安価なモデルU1。毛布で包まれてクレーンで持ち上げられ、ユラユラと2階のベランダに近づいて来る景色。心に柔らかく刻まれている愛すべき映像だ。
妹が1年先にピアノを初めていた。どうしても自分にも、、と父母を説得した。親にそれだけの我が儘を言ったのは初めてだったと思う。

長く続いた重い小児喘息はその4年生の1年で急速に治っていった。その回復と比例するように音楽を始めたのだ。ピアノの始め方としては理想的だったかも知れない。
最初のピアノの発表会は、N先生の教えている数人でアパートの一室でささやかに行われた。僕と妹、そして母はそこに出向いたが、僕はまだ片手しか弾けず先生の伴奏で「夢見る人」を弾いた。
今も、しっかり心の底で歌っている。
アパートの一室は同じくN先生に習っている女の子のお宅で、彼女の父親は有給をとり当時としては珍しかったテレコにマイクを接続して演奏を収録してくれたのだった。
僕の父は「そんなことで会社、休むのか~っ!!」と怒っていたが(笑)
上京前で印象に残っている先生はこのN先生だけだ。他の数人の先生には申し訳ないけれど。
僕が、先生と呼べる先生(ピアニスト)に出会ったのは上京してからとなる。僕は本当に運がよかった。何のコネも力もなかったのだから。

〈上京して最初に師事したのはT先生である。〉
当時の実力では音大受験のレベルに程遠かったので、一浪を条件に音楽学院で勉強することを父が許してくれたの だ。この音楽学院には受験科という音大受験専門のコースがあり、それ相応の先生達がおられたのである。大体が音大の講師クラスだったと記憶している。コースに 入る前にピアノとソルフェージュのテストがあった。グレード分けするためである。
僕は 当然最下位グレードのEだった。しかしピアノはT先生に習うということになった。これは今もって不思議だ。T先生は国内では屈指のラヴェル弾きであり、ロ ンドンリサイタル後、御前演奏の経験を持つこの学院においては何と言うのか先生というよりクラシック音楽の業界でもバリバリの現役だったからだ。
自分の演奏があまりに下手だったので、面白いと思ったのかも知れない。それくらいしか理由は思い浮かばない。その当時のT先生は可愛らしく若かった。しかしそれだけに怒ると非常に迫力があり、一度レッスン室から追い出されたこともある(笑)
教 え方は、とにかくよく弾いてくれたという印象がある。「あなた本当に不器用ねぇ、、どいて!!さぁ見て、聴いて!!」と目の前で課題曲を弾いてくれた。こ れがどんなに自分の力になったか、土下座しても足りないくらいである。本当に凄い人ってのは出し惜しみしない。本当に凄い人ってのはその入り込みが半端ではない。 この身を以て理解したわけです。

 

〈I先生に圧倒され、温かさに包まれる〉

T先生は、しばらくするとご自分の師事したI先生の自宅に僕を連れて行った。これは今の自分であればビビってご遠慮します(笑)というような高名な方であったのだが、当時の僕は名前も何も知らず、ただボーッとT先生の後をくっ付いていっただけだった。
このI先生は更にキャラが濃かった。T先生でさえ小さく見えたほどだ。
こ の先生のレッスンは際立った特長があった。生徒と一緒に最初から最後まで弾くのである。一度、途中で先生の演奏の凄さに圧倒されて停まってしまったことが ある。しかし先生はそれにも気付かず猛然と弾き通してしまった。ポカンと口を空けて見ている僕に雷である「あなた、、一体、、何をしているの?」(笑)そ の雷は大変なものだったが僕はこの先生が怖いと思ったことは一度もない。いつもレッスンの後には身体に温かな空気が入れられた気がして先生の自宅から帰るときは 「音楽やってよかったな!」と思ったものである。
赤鉛筆のチェックが今でも残っている。凄い筆力だ(笑)そして見ていると何故か心打たれる。先生はもう大分前にお亡くなりになった。しかし僕にはどうしても亡くなったという実感がない。本当に立派な人間というのはそういうものかも知れない。

 

〈今も夢に出て来て励ましてくれるM先生〉

そして最後がM先生だ。この方だけが男性だった。M先生は大学時代に師事した。人間としてあまりに立派だった。音大の講師は、ホームレッスンと言って大学以外でご自宅でも教えることが多々あるが、このM先生はレッスン代を一度も受け取らなかった。最初レッスン料を持って行って叱られたものだ。そういうことでピアノを教えているのではない!ということで、これは他の先生にはなかったM先生の特長だった。また基本に厳しく、徹底的に指の動作、脱力、フォームに対する考えを持つよう鍛えられたのだが、それは今もしっかり継続している(つもり、、笑)。M先生の自宅ではよくご馳走になったものだ。楽しかったなぁ。
そしてこの偉大なピアニストもご病気で天に召されてしまった。
僕が音楽の道を諦めないこと。それからお金に対する考え方に頑迷なところがあり、人と相容れないアマチュア精神に拘るのはこの人の影響だと思う。
でも、良き影響だと思うし僕は絶対に曲げるつもりはない。業界ズレしてやたらと金銭感覚ばかりが研ぎ澄まされる輩が多いが、それではさっぱり音楽家らしくない。音楽家はもっとバカで音楽本意だっていいじゃないか。M先生は今も夢に出て来ることがある。いつも「さあ、さらおう!」と言う。こちらは練習などしていないので「そんなぁ、、」となる。
ほぼ現役のまま、そのリアルなことに驚くのだが。
嫁にそれを伝えたら「おそらく心配してるんだよ」と言われた。
深く溜息を漏らしつつ涙を堪える自分でした。

こうして僕は上京して5年くらいで3人の優れたピアニストに師事することが出来た。それは最初は運とT先生の物好きでお茶目な好奇心から始まったのだと思うが、後は全て人間関係から来た流れとなる。
先生達の社会的な立ち位置からすると、あまりに分不相応なことだったと思う。未だ何の結果を出せない自分だが、今もこうして音楽を続けるのは自分の我が儘というよりも、人として立派だった先生達に少しでいいから恩返しがしたい。それから音楽をやらせてくれた親達にそれが失敗ではなかったと最後には思ってもらえたら、、という考えから。
音楽をやる理由はもちろん音楽が好きだからというのはあるが、それは建前かも知れないな、と思う。もっと大きな理由はこうした実に人間臭い事柄から来ています。自分の音楽は変拍子ポリリズムで彩られておりますが、その根底は実に演歌調なんです。演歌は嫌いと言っておきながら可笑しいけれど。でも人間臭い事由があるのだから、それは自然なことに違いない。