あるピアニストの呟き - カワサキタカヲ3動向 -

ピアノトリオ「TAKA3」の関連記事を中心に音楽雑記帳としております。

あるピアニストの呟き ー カ ワ サ キ タ カ ヲ 3 の 動 向

シーケンスパターンが好き!の原因を探る

小児喘息のどん底は小3の夏。

退院の日。父と母に守られるように強い日射の中、駐車場を歩く僕らの頭上にあった太陽。今でも心に刻まれる唯一無二の特別な太陽。

この退院から間もなく、釜石製鉄所病院・小児科に於いて始まったクリニックは、その第一段階として1週間に一度、診察を受け医師は注射の薬液を細かく決める。

診察時には必ず母が書き込んだ喘息日誌を確認してもらう必要がある。

聴診器をあてて調子が良くないときは注射の後、吸入をすることもある。

次第に身体が元通りになってくると、通院も何だか塾通いみたいな感覚となっていったが、帰り道のささやかな楽しみはバスに乗ることだった。

製鉄所病院前というバス停に立っていると調度1つ向こうの停留所である「釜石駅前」から発車したバスがカーブを曲がってこちらに向って来るのが見える。

そのバスのフロントグリルの形で「今日のバス」が分かるのである。

気に入っていたのは、リアウィンドウが大きく2つに分かれているもので、今では全く見かけない。そして運転手の座るサイドウィンドウのデザインが、少し斜めに切られたており、それがまた気に入っているポイントだった。

乗り心地もまた特長があり、船のような感じ、ソフトでフワフワしていた。あれは足回りがヘタっていたところもあったにせよ、何かシトロエンのハイドロみたいな乗り味であったからして、そういうガスとか空気を使ったサスを使っていたのでは?と思われる。バス会社は岩手県南バスで、残念ながら今はない。白に赤のストライプでこれも清潔感のある良きデザインだったと思う。

小学校、中学校の遠足、修学旅行等は、全てこの県南バスの観光用バスで、これに乗るのも楽しみだった。

さて、この週1回(水曜日か木曜日の決まった時間の診察だったと微かに記憶)同じバス停から楽しみにしていたバスで遠野方面に向うというサイクルが続いたのが、自分のシーケンス好きの元になったのではないか?というのが本日のお題の中心である。

音に出会うこと、その音を楽しむこと。

ある場面に遭遇すること、それを楽しむこと。

どこか似ている。

繰返し行われる同じことを乗るバスの色彩や形状の差異により微妙な変化をもたせて有機質なシーケンスパターンを構築している。

これは小学校に毎日通うという日常とは一線を隔てている。

それが記憶に刻まれ、そのイメージを表現するにおいて、繰り返される場面を音に変える時、そこにはいろいろなフィルターが入るであろう作曲作業であっても、その骨格は変らない。

自分がどうして過去の時間に拘るのか、こうしてまとめると理解出来る気がする。

感傷的な気分で何となく旋律やハーモニーを紡いでいるのではない。

それは過去の自分が記録映画のように見えており、それを現在の自分が行う確認作業みたいなものである。

人は誰でも、記憶という小さな映画館を持っており、時折そこで自前の記録映画を観ている。僕の場合、そこにBGMでも流しておくか?という感覚なのだろうと思う。

そして、どうせなら楽しく凝ったものにしたいと考えるが、そこに出現する手法の1つの要素として本タイトル「シーケンスパターン」となる。シーケンスパターンとは音列のカタマリをリピートすることであるが「繰り返す」という単純なアプローチが聴く側に某かを訴える。聴き手は長く時間と繰返しを行ったとしても、その小さなリフが楽しく少し捻ったものであれば、驚く程我慢強い。

音楽ファンの恐るべき力を感じる時間である。

自分が用いる要素の検証は必要だと思う。なぜなら、自分がこの先、変化を求めるからだ。変化には単に丸暗記したような技術では変化というよりは改悪になってしまい、結果自分のモチベーションを下げてしまうことにもなりかねない。

そういうことで言えば、シーケンスパターンと共に自分の骨格の中心にある「マルチトニックシステム」も自分が多用する裏事情があるに違いない。マルチトニックシステムは、例えばドミソというハ長調の主和音を、別なキーの主和音に連結することを言う。つまりそこにはハーモニーの通常の流れを遮断するという特異な技法という言い方も出来る。しかし、そこにインターバルの規則性を設けると極めて輪郭鮮明な世界観を構築出来る。これもまた、安易に好きだから使うというのではなく、その根本に横たわる原因を突き詰めながら作業して行きたいと思う。

それがまた僕にとって楽しいことでもあるので。

たまに帰省するとあのバス停の前を通る。

停留所があるだけ。バスを待つ者は誰もいない。

不思議なほどだ。

ふと、そこに喘息日誌を持った自分がバスの来る方向を見詰めて立っている気がするのである。