あるピアニストの呟き - カワサキタカヲ3動向 -

ピアノトリオ「TAKA3」の関連記事を中心に音楽雑記帳としております。

あるピアニストの呟き ー カ ワ サ キ タ カ ヲ 3 の 動 向

その音は何処から?

作曲という行為。

その音を紡ぐ時、一体その旋律やハーモニーは一体何処から来るのか?

その正体を知りたいと常に思ってやって来た。

言葉にするには、かなり難しい事象達がある。

近い言葉を探してみると「空気感」とか「気配」とか、そして「心の動き」もまた含まれる。つまりは「感情」ということか。

視覚を通すもの、肌に触れる風の温度、湿度、強弱、そういったものはまだ分かりやすい方だ。

感情が一番難しいかも知れない。

だからこそ人間関係もまた難しいわけで。

よく小学校4年生の1年間のことを書く自分だが、それはピアノを始めたタイミングであり、重い喘息から解放された1年だったから。

自分の思い入れとは裏腹に、音に対する作用はそんなハッキリとしたスパンで影響するものではないと思う。

時系列などは滅茶苦茶で、街を歩いていてふと忘れていた高校時代の放課後に心がワープする。ところが何故か昔家族で朝食を食べていた時、父がふと外を見て「あぁ今年の初雪だな」と呟いたこと、それがオーバーラップして来たりする。

重層的で割り切ることなど出来ないイメージの混沌が音に作用するのではないだろうか。特に音楽をより分かりやすく具体的なものとする「歌詞」のない演奏音楽は、そうした一種のカオス状態から影響を受けるものだと思う。

最近、よく考えるのは、その混沌とした過去の生温い泥のようなカタマリをもっと冷静に写実的に描き切れないのか?ということである。

完璧な表現主義者になるのは僕には興味が無い。それならワームトンネルで実際の過去に飛んだらいい。彼のホーキング博士に言わせれば「未来に行くよりは過去に行く方がずっと難しい」らしいが。

写実的というのはあくまでも「量的」「匙加減」の問題であり、今の僕の作曲作業においては"あまりに曖昧模糊としている"ので、、という注釈が付くのである。

もう少し、克明に過去を洗い出し、その色合い、時間、風景に則した音使い、もしくは演奏形態を考えることがあっても良さそうな気がする。

直感的に、その方が結果、面白い音楽になるという見立てがあるのだ。

結局、僕が作曲という行為を継続出来るのは、これが時間と密接に関係しているからだと思う。

例えば、小学生の僕は、家族旅行の車の窓から見えるモノ、、何と言うこともない「広告看板」、少し形の歪な「石」等に特別な意識を持つことが多かった。

それが数日後、家に帰る道すがら同じ風体で目の前に現れたとしても、それは見た目には同じでも別なモノに変っているのではないか?

時間の経過による変質(変容)は当然あるだろう。微小な単位であっても。

しかし勿論そう言うことを言っているのではない。

インデアンが木や石にも魂(命)が宿っていると信じているのとどこか重なるのでは?と思うのだけれど。

木と言えば、実家が平屋だった頃、祖母は朝早く起きると必ず東に向いて手を叩いておりました。その山の稜線に一本の松が見えていたのだが、その特徴的な形状から僕は何か少し不気味でグロテスクなものを想像したものだ。子供ってそういうところがあると思う。(キングの名著『シャイニング』の主人公ダニーみたいなもの?)祖母は山の神様を拝んでいるのだと言っていたが、僕は勝手にその一本の松に向って拝んでいるのだと思い込んでいた。

そういうことが音になり得ると思うのだ。例えそれを僕が音の素材にしなくとも、勝手に心のどこかに巣食っているもの。それこそが音の正体(イメージ)ではないだろうか。

音と時は表裏一体であると言い切ったら、そりゃスッキリするが、しかし音楽をそう言う様に考えるのは、これもまた「あっさり」したもので味気ない。上に述べた気味の悪い「松」ではないが、そうしたとりとめのない小さな出来事に拘りを持ち続けたいと思う。

音と音の狭間、そこには宇宙に浮かぶ豆粒のような小惑星のように過去のゴミ達が点在している。それはパンにまぶしたフルーツピールのようにも見えて鈍く輝きそこそこに美しいだろう。しかしそれが集合体となって作品となった時、音楽ファンのある意味、意地悪な耳に、そして新しい音を渇望する「心」にどのように響くのであろうか。

不安とほんの少しだけの願いをもって来るべき未来を思うのです。