あるピアニストの呟き - カワサキタカヲ3動向 -

ピアノトリオ「TAKA3」の関連記事を中心に音楽雑記帳としております。

KTGは実にしぶとい、と思う。

KTGは2009年12月に結成された世にも珍しいクラリネットフロントのバンドです。クラリネットは筒井香織さん。アストゥーリアスの奏者としてご存知の方もおられるでしょう。渡仏して、仏中心に演奏、作曲において活躍されている才人です。

ぶっとんでいる!こういう言い方が似合うのは実はこういう人だと個人的に思います。世には実に器用で嫌になるくらい上手な演奏家がおりますが、そういう世界とは一線を隔てているところがあり、よくある表層的で底浅な音楽からは対極的な位置に佇むタイプです。
現在、一時帰国しておりライブを行うことになっております。

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▲設計された即興音楽「In Sprit」
9/30昼ライブですが、四ッ谷Doppoというところで演奏させていただきます。
何だかひっそり感漂うライブですが、しかし内容は実に濃く、このユニットの持つ様々な技が表現と結びつき、作品イメージを前面に押出して行きます。
小映画のようでもありますが、心の奥底に灼けた針をスーッと刺すような音でもあるでしょう。
しかし、実はそれは決して不快なものではなく、調度ツボに効く治療のように温かな余韻として残ることを確信しております。

KTGは結局、僕の起こしたユニットで唯一生き残った貴重なバンドです。その生命力はメンバーの相性と共に、このバンドに対する理解の結晶から形成されたものだと思います。リーダーの資質など皆無な私、飽きっぽく、コンプレックスに苛まれている人間でありながら、ここまで継続したことをメンバーに感謝しつつ、ライブ当日を迎えたい。が、しかし宿題はまだ燻っており、急遽プラスして1曲練習しなければなりません。こういうところもまたKTGらしい。
是非、ご注目いただければと思います。

9/30日(日)
四ッ谷Doppo 昼ライブ
出演
1.平和堂
唯一無二のサウンドを聴かせる神山敬太率(dr)いるユニット。強力なリズムと不思議なイメージの構築。
2.KTG
仏で活躍する筒井香織(クラリネット)をフロントするテクニカルユニットです。
一時帰国の「お帰りなさいライブ」となります。

■四ッ谷Doppo
OPEN 12:30 START 13:00
13:00~13:50 平和堂 14:00~14:50 KTG
当日券のみ ¥2700(1ドリンク付)
〒160-0008東京都新宿区三栄町1-2CSビルB1   03-6380-4245
公式サイト:https://doppodoppo.wixsite.com/soundcreekdoppo

もしかすると、、このバンド。

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タカ世界ってバンド名は仮題ということです。何しろ、急遽このようなメンバー構成になったところがあります。メンバーのスケジュールによって、バンドの編成が変化するのは古今東西ありがちなことですが、このバンドの本日リハーサルを聴いてみると、ある種の器を持っていることは確かです。これはメンバーで感じ取った方もおられると思います。バンドで大切なポイントのひとつに、リハーサルでもライブでも合奏していて楽しさを感じることです。その楽しさは何処からくるものなのか?今日は帰り道、そんなことをボンヤリ考えておりました。
おそらく、それは細かな呼応ということになると思います。
音楽でなくても、人間関係の相性というのは何事においても付いて回りますが、それほど違わないでしょう。よって、人間同士の共同作業である合奏においても人間としての相性は関係してくると思います。
リハーサル以外の時間も、メンバーと言葉を交わして、理解を深めることは回り回ってバンドの演奏を円滑にし、良い方向に向わせる助けになるに違いありません。
私の提案した今回の作品は、とてつもなくゴチャゴチャとした面倒な内容を持っております。しかし、ここまでアレンジをやったのは実に久しぶりのことです。時間がなく見切り発車したパートも散見され、それはクラリネット筒井さんはじめメンバー達の助言と、作品に対する理解と判断力により、時間の経過とともに乗り越えていく形がハッキリ見えました。自分の音楽を諦めきれない理由が、こうした音楽の歩みが自分の感覚を通して伝わるところにあります。ライブの緊張感や、聴き手さんからの感想を受止める時もまた幸福な気持ちになりますが、このバンドのリハーサルから希に受ける柔らかな幸福感というのは独特なものがあります。作品を書く作曲家は演奏していただくメンバーに多くの感謝を持たないといけないのだと思います。自分の貴重な時間、エネルギーを私のまだまだ至らない作品に使っていただくというのは、実は大変なことです。少しでも完成に域に達して、社会的な認知を受けられたらと願うものです。10月13日シルバーエレファントライブは、リハーサルから直線的に曲がらないイメージで臨みたいと思います。

10月13日はシルエレライブ!!

シルバーエレファントはFLAT122の時代からお世話になっている吉祥寺のライブハウスです。よくプログレの聖地と呼ばれたりしますが、私としては内容は自由で様々なバンドさんが出演しているという印象を持っております。
今まで、数々の対バンと共演させていただき思い出の多い「箱」です。

さて10月13日(土)は久しぶりの出演となります。今回は言い方は問題があるのですが、ごった煮的なユニットということになりましょうか。

川崎タカオ/筒井香織/中島洋隆/田辺清貴、ここに+1しております。この+1がミソでありまして、当日ゲストとなります。出演の可否が当日となりませんと分からないという、ある特殊な理由がございまして(変な理由ではないです。むしろ明るく目出たい理由です。)今から祈るような気持ちであります。
このメンバー、またゲストさんの楽器から、音楽的にはFLAT122+IMAGOという形が見えて来ます。
自分の中心線に在るのは、今もFLAT122ということになります。絶えず変化を求める実験性、リスクを恐れない作品の変遷。聴き手に媚びることなく尖りまくるというのは演奏家として当然のことながら実に難しい。バンドを率いることに年々疑問と自信を喪失して来た私にとって今年の5月25日に行ったライブは、久しぶりに自分がバンドをコントロールしている実感を伴いました。そのキッカケが今回の一見セッション的なメンバー構成の基礎になっています。是非、ご注目いただければ幸いです。

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10月13日(土)
PROGRESSIVE LIVE 2018~
出演
Benoit Moelren tribute project
marimba.三浦咲(from.ソニック・トライ・アンダーグラウンド、リベラシエロ)
g.林 隆史(from.Qui) b.中島洋隆 dr.菅野詩郎(from.KBB)
 
キクラテメンシス
fl.鈴木和美 key.秋山佑介 b.国分巧 dr.吉田真悟 g.加藤裕幸
 
TAKA WORLD
cl.筒井香織 pf.syn.川崎タカオ b.中島洋隆 dr.田辺清貴
 
OPEN 17:30 START 18:00
前¥2500 当¥2700
チケットご予約開始 8月13日15:00より

■シルバーエレファント
住所:東京都武蔵野市吉祥寺本町2-10-6B1
電話番号:0422-22-3331
公式サイト:http://silver-elephant.com

25年ぶりのバリ島で聴いた「スマラ・ラティ楽団」

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インドネシア・バリ島の旅。
急ぎ足でハードな日程だったけれど、25年前に旅した時と比較すると空港周辺の変貌ぶりは呆れるほどだった。
数年前に訪れたペナンも高層ビルの建設ラッシュで昔の風情は何処へ、という悲しい状況だったが、まあ似たような状況か。でも、バリ島には僕にとって最後の砦が在る。
ガムラン」です!!

ガムランはご存知の方も多いと思います。
バリヒンズーの儀式に用いられる音楽です。
その種類も様々ですが、25年前にホテル中庭で聴いて大変なショックを受けたジュゴク(平たく言えば各種木琴のみでポリリズムを奏でる合奏形式)とは異なり、今回聴かせていただいたのは、スマラ・ラティ楽団という村々で形成された楽団とは違ってインドネシア国立芸術大学卒業生を中心として形成された、トラッドなガムランとは一線を隔てるコンテンポラリー音楽(現代音楽)からのスタンスを採るガムランとなります。
僕は何の知見もなく、この楽団に接しましたので、このページも帰国後に調べて若干の肉付けをしております。
ライブ会場はウブドの講堂みたいなところで、ステージを中心とした空間は独特なパノラマを構成してスタート前から期待は高まっておりました。余談となりますがバリ島に旅行することがございましたらウブドに行くのが良いと思います。まだバリの良きところが残されているように思います。
スマラ・ラティに関しては旅行記事、音楽記事で書かれている方も少なからずおりますので、ここでそれを踏襲しても面白くないでしょう。
僕の目と耳で感じたところを何時もの脈絡なき流れをもって力筆してまいります。
この楽団は、大きく分けると3つのブロックから成立しています。

1、楽団向って左側

2、楽団向って右側

3、その2ユニットを橋渡しする、リズムで流れを創出する二人のパーカッション奏者

パーカッション奏者のリズムの取り方は、後日聴いたトラッドなガムランとは全く異なる、実に変態極まりないセンスです。合ってないような合っているような、、?ズレているようなズレていないような、、?それでいて急速に全体を次の方向に向わせる恐ろしくタイトな決め技を持っております。このパーカッションの上に、右側の鉄琴奏者はガムラン特有の何とも複雑なフレーズを高速で刻んで行きます。その鉄琴奏者の並ぶ真ん中にはテンポをとる(これがないと始まらないでしょうね)メトロノーム役がおりますが、一見退屈なこの役割はスマラ・ラティにおいては一層大切となります。何しろリズムの構成が大変複雑で、変化幅が大きく、正確なメトロノームがなければ、音楽は成立しないからです。
さて左側にも鉄琴奏者達が並んでおりますが、大きく異なる点があります。ひとつは中、低域を受け持つ奏者が配置されていること。また使用する鉄琴自体も違うものが使われ、それは鉄琴両側に柔らかな音を発する棒状の発信器?が立ててあることです。これをリズムの決めのところで表裏にユニゾンで鋭く入れて(叩いて)行くのですが、こういうガムランは聴いた事がない。立て笛奏者が1人から作品によって2、3人となるところも大きな違いです。
作品にもよりますが、ある部分リズムは完全に16ビートであり、またリズムの割り方とアプローチが変則的かつ大変複雑で音楽をよりカラフルなものにして聴き手を飽きさせません。大きく連符でとったり、その連符がそのまま拍子主体となるシンメトリカルな方法は、どうみてもフランク・ザッパにしか聴こえない。しかし、ガムランフランク・ザッパをやる!!と想像してみてください。どれだけ凄まじいインパクトがあるか、ということになります。今回演奏した1曲はアメリカの作曲家エヴァン・ジポリのものです。彼は自分の曲を彼らスマラ・ラティに捧げましたが、実際に彼らに教えるために2012年バリを訪れているようです。この作品が最もジャズフュージョンぽく、またザッパらしくもあるわけです。好感を持てるのは、それが付焼き刃なところがなく、数年かけて熟成され完全に彼の手の内に在るというところです。演奏している彼らの表情だけでそれは分かります。楽し気で大らかな気持ちよさが伝わって来ます。

さて、ガムランとは切り離すことの出来ない要素「踊り手」です。このガムランの踊り手というのは本当に魅力的ですよね。個人的に好きなシーンは女性の踊り手が首と腰を優雅に左右に振りながら静々と登場するところです。これはどういったガムランでも共通しており、こうしたところは確かに変えないでいただきたい部分です。
それにしてもこの楽団の創設者であるアノム・プトラさんの踊りは別格で楽しく、凄く、面白く、内容の濃さでは群を抜いておりましたが、僕がそのテクニックで腰を抜かしたのは、後半一人登場した女性の踊り手アユ・スリ・スクマワティさんの踊りです。この方の身体の動きは無論の事、両目の動きが何と、楽団のザッパ16ビートに完全にシンクロ(同期)しているではないですか!!!
人間ってこういうことが出来るものなのか、と本当に驚きましたし、その動作ひとつひとつが音楽と混然一体となることでひとつのイメージを創出している芸術性の高さに感謝の気持ちでいっぱいになりました。
これまで様々な音楽、パフォーマンス、わけの分からないアートまで見たり聴いたりしてまいりましたが、今回のスマラ・ラティのライブパフォーマンスには心底まいりました。来日したら是非また聴きに行くつもりです。

余談〉バリ島の良いところは歩いているとどこからともなく木琴の音が聴こえることです。これは25年前の方が顕著でした。踊りを習っている女の子の姿も見かけたものですが、今回もホテル内での演奏や、レストランでのパフォーマンス等、上記スマラ・ラティ以外に聴く機会はありました。レストランで聴いた1時間30分程のパフォーマンスはもっとトラッドなもので、これはこれで気持ちよく小学生の踊り手さんがとても可愛らしくしかも十分な力量で素晴らしいと思いました。ただ残念なところも若干ありました。それは楽壇の後方に座っていた一人が演奏中スマホを見ていたことです。自分の演奏が長く休止していることはガムランの場合あります。しかし自分の演奏がなくても、気持ちとしては作品に入っていなければなりません。スマホを見るなど論外です。次にホテルのロビーでソロ演奏していた奏者のやる気のない演奏、リズムの悪さ、途中で投げ出し加減で練習スタンスで割切る態度。最低です!観光客が自分の演奏など聴いていない、ただ通り過ぎて行くだけ、、と思っているなら考え直した方が良い。しっかりと聴いている人は意外に多いし、バリの場合ガムランに接することが目的で滞在している方もおります。ホテル・中庭で演奏していた奏者は一人で三役かい?というくらいに凄かったのに、、この差には驚きました。ガムランは他に類似のない特殊なサウンドから盲目的に素晴らしい、という認識を持たれがちですが、聴き手は変なバイアスをかけないで素直に耳を傾けるべき、と。「何かパッとしないな、下手に感じちゃうな」などと思うのなら、それは駄目なガムランと言うことでOKだと思います。

真夜中の雪+ノイズ

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雪。
最も好きな自然の事象です。
犬年だから、、と言ってしまえば話が終わってしまう。
雪の特長は音ではないか?と思います。
私の田舎は岩手の太平洋側ですので降雪は少ない方です。しかし、東京とは比較にならない。
程よく、こちらが困らない程度というのか、雪害となるともはや可愛くも何ともない。雪の音。例えば、、、。
夜が更けて、一夜漬けの勉強をしておりますと、当時二階に割り当てられていた部屋の障子の向こうに本当に微かな気配を感じます。
その気配はカサカサという微量な音。
音楽で使用するミキサーやIF〈*1〉メーターのインジケータ、針では動かないレベル。
しかし、実際に音を発しているからこそ気配が在るわけです。
本当に無の状態から気配を感じることは、もしかしたら在るかも知れないですが(そう考えた方が私は好きですが。)希なことでしょう。

気配を感じると、強い確信を持って障子を開けます。
すると、どうでしょう辺り一面銀世界。降り積もった雪は5cm以上。
この世界の変容、自然が演出する完璧なドラマには驚く他はないです。
思わず、教科書、参考書を閉じて、外に飛び出します。
当時実家の前は車も殆ど走らなかった。
思いっきり走って、そして滑ってみると意外な程自分の身体は穏やかな雪の力で前方に運ばれて行く。あまりの美しさと楽しさに我を忘れて奇声をあげていると、遅く仕事帰りの女性に驚かれたので、急に現実に戻って勉強を続行するために引き上げることにしました。
ふと、隣家との境界線に設置されている電信柱を見上げますと、その付近から電気的な「ブゥーン、、」というノイズが聴こえて来ます。
水銀灯の光に反射する雪模様とそのノイズの造る何か立体的な新しいアートを眺めている気がします。
この電信柱付近からの電気的ノイズに関してはネットで詳細を説明している方もおられます。
しかし、そういう実際的なことではなくここは、人の心に止まる事象ということで語らせていただいております。
雪のイメージは幼稚園から始まっております。この幼稚園はキリスト系の幼稚園で園長さんも神父さんでした。仏人でオスカー・エグロフと言います。彼はよく「仏にもオバQはいますよ」等と園児でも分かるウソを言っておりましたが彼に対する根拠なき良い印象は今も変わりません。僕は無宗教、無信心ですが、どうも教会とか、クリスマスのあの宗教的な薄っぺらい外側部分に弱いのはこの辺りの刷り込みからと思われます。(宗教は表層部分は大体において柔らかく気持ちが良い。しかし核心に近づくと、それはもちろんドロドロ状態になっていくわけです。)「雪降る時も、嵐吹く時も、食べ物はあります。神様がくださいます。」こうして毎日お弁当をいただくわけです。ウソつけ!!なら働く必要ないじゃん!と思うのですが、そんなことを言ったら可愛そうなんですね。これは形式というものです。こう唱えてお弁当をいただくと少し美味しくなる気がしませんか?やれやれ、訪販の天才みたいだ。

ところが、次に来た雪のイメージは祖母の法華教から来ております。キリストから日蓮宗というのは富士急ハイランドの「フジヤマ」もビックリな急降下です。祖母は心臓が悪くそこから元気になるよう縋ったのが日蓮宗法華さんですね。大晦日、家族皆で過ごしていると、祖母がアパートの踊り場に行くと言い出しました。大雪でしたから皆嫌がって辞退しましたがワタシだけが何故かお付き合いしました。
踊り場でしんしんと降る雪を眺めていると、遠くからドン、、ドン、、ドンとタイコの音が近づいてまいります。
それは、高齢の女性達でつくられている護衛歌隊です。独特なリズムと音。そしてあの真似の出来ない少し湿った感じ、不気味なところもある節回しの歌。とうとう白装束を纏った編み笠を被った彼女達は、その踊り場の前で立ち止まりました。そして高らかにタイコを打ちながら朗々と歌います。
このインパクトは、キリスト幼稚園の刷り込みを軽く一蹴するほど凄いものでした。
祖母は今年の大晦日はこちらの若夫婦のところにお邪魔しているから、、と予め護衛歌隊に伝えておいたのでしょう。

そして次のイメージが前述の電信柱ノイズとなります。
こうして整理すると、雪に対する強い感心が3点の要素から成り立っていることが分かります。それ以外の忘れていたことの中に、実は面白いこと、素敵なことは隠されているかも知れません。ふと思い出すということが不思議ですよね。なにかスイッチがあって、それが何かのキッカケによってONされるのでしょうか。自然と自分との関わりに、そうして気持ちの良いスイッチがあることを信じております。

*1:IFとはインターフェイスのこと。この世にインターフェイスは様々あれど、音楽の場合は楽器とテレコ(録音機)の橋渡しを行う現在の音楽でも最も肝とされる機器を言う。例えば、アナタがマイクで歌う、その歌をコンピュータに入れてみたい、、と思ったとします。しかし、マイクから一体どうやってコンピュータに美声?を入れるのでありましょうか。そこでマイクコードをIFに接続し、IFからはUSBでコンピュータに接続し、そのままではやり取り不可な信号の変換を行いつつ、音データをコンピュータに流し込みます。勿論、そのさいコンピュータ側にはDAWという作業アプリがインストールされている必要がありますが、これを説明しているとキリがなくなりますので、興味の沸いた方がおられましたら、どうぞPianistTAKAまでご質問してください。

M床屋はまだ健在

屋上から五葉山、愛染山、箱根山、という三山を見渡すと、もっと近い位置にM床屋が見えます。
幼稚園から小学校入学の頃は、Y床屋に行っていたのだけれど、洗髪するのが恐ろしく、よく泣いていたものです。
しかも、泣かないで終えることが出来るようになった頃にとって変った恐怖。
それは置いてあった漫画、少年マガジンだったかな?
そこに連載されていた梅図かずおの「半魚人」である!
自分の兄貴が実は半魚人であった、、という何ともショッキングな流れ。
僕はその漫画が置いてあるY床屋までもが一枚噛んでいるのではないかと、同一視していたわけです。子供ってそういう思い入れが極端なところがありますよね。極端過ぎてもはや天才レベルと。
Y床屋に行くと、どうしても「半魚人」の続編を読まなければいけません。
そうした強迫観念が自分を嘲笑うように圧迫しておりました。
どうしても読みたい。しかし読むとその後大変な気持ちになってしまう。その超微妙な天秤の巨大さは呆れる程でした。
そんなところへ、新しく商売を始めたのがM床屋です。
M床屋は、Y床屋からせいぜい50mm程度のところに挑戦するように建てられました。
渡りに船とばかりに、僕はこちらの新型?に乗り換えることにしてみました。
M床屋の最たる特長は、店主の女性です。少し厚化粧なところを抜かせばなかなかキレイな方で、しかも仕事が早いのが良かった。

よく母が「あの人は実際の出来上がりは知らないけれど、とにかく(仕事が)早くて自分でも自慢しているらしい」と言っていたのを憶えております。
当時僕は喘息がほぼ治癒しており「病気時間を取り返したい」というの気持が実に強かった。中でも(勉強と言いたいところですが)遊びです。
自転車に命をかけていた僕はとにかく自転車で走るのが日課でした。M床屋にも当然自転車で通っておりましたが、短くなった髪で夕暮れペダルを漕ぐと、襟足に晩夏の風が冷たく触れておりました。あの地域はお盆が終わるともう秋の気配が濃厚で、半袖は仕舞い込むタイミングです。

時折見つける大きな水たまり、そこの中心に自転車を止めてスタンドをかけます。
そして、ペダルを漕ぐと後ろタイヤが盛大に水を吹き上げます。床屋の帰り道、そんなことをしておりました。
M床屋は今も同じ風情で全く同じ場所で商売を続けております。覗いてみたいですが、あのキレイなお姉さんがもしも健在ですと、それはそれで嬉しいのですが、やはり自分の記憶を大切にしたいと思うのでした。

温かな景色・忘れられない日

丘陵の側面に建てられた寮の門前に停めてあるのは父の白いコロナだ。
東北の片隅を朝6時30分頃に出発して、ようやく到着したところ。トランクには寮で使う布団一式が入っている。時刻は夕暮れには少し間がある15時頃だっただろうか。
素晴らしくよく晴れた僕の記念すべき上京初日。
寮監督(後に寮生達からは略称で「寮監」と呼ばれる)に挨拶した父と僕は、練習館を見学するために棟の裏手にある勝手口から丘に沿って上る通路を歩いて行く。練習館は一部屋にアップライトを押し込めて、自分が座るとスペースは殆ど無いほどの狭さで、父は「これはまるで独房だな」とブツブツと呆れる。その独房が左右にそれぞれ10部屋程度用意されていただろうか。結局ここで1年間、音大に入るために自問自答することになるのだけれど。
何しろ、僕はすっかり圧倒されてしまい早々に立ち去りたい気持ちで溢れかえっていた。練習館を後にして坂を下りて来ると、途中で同じく見学に来たらしい母親と青年が歩いて来た。父はその母親と立ち話をしていたが、その時どっしりとした体格の彼が寮監督に向って「あの、、練習してもいいですか?」と切り出した。上京して早速微かな敗北感を味わうことになり「こういう積極的な態度って音楽家には必要な要素なのかしら?」と妙に心がざわついた覚えがある。
僕の寮生活は1年だった。
この音楽院に入る直前に受けたソルフェージュのテスト、つまり「聴音」「新曲視唱」「楽典」の結果はかなり分かりやすく全て一番下位。スピードスケート・高木美帆さんの最初のオリンピックと同じである。否、その物言いは失礼極まりない。僕の場合、絶望的な音楽基礎の欠如、実力も知見もキレイにゼロといういきなり目立つ存在であった。その後の面接で聴音の点数「4点」の内容を聞くと「可哀想だったので小節線を書いた点数」と言われたのを憶えている。笑うしかない。
そして「(グレード分けテストでは)君のようなタイプが数人いるんだよね。でも、ここで1年持ちこたえればS音大くらいには入れるから、、」と伝えられた。もう何が何だか分からない世界。結局このグレード制を採用する最低ライン・Eクラスからスタートした僕は、夏休みで帰省した頃には、しっかりと10円ハゲを作っており(円形脱毛症)田舎の床屋さんを驚かせました。
ピアノ科でEクラスという話は希である。現在のことは知らないけれど、当時ソルフェージュの成績は専攻によってキレイに分かれていた印象。大変失礼で申し訳ないのだけれど、下層に集合しているのが管楽器と声楽の連中だろうか。少し上がって、管楽器でも少しばかり優秀な生徒、そして全体の真ん中レベルにあたるCクラスにピアノ専攻が多く、A/Bという教える側の先生の間違いをバカにするレベルがバイオリンなどの弦楽器専攻と作曲科志望というところだったと思う。「何か間違って芸大とか桐朋をおっこちたような輩」と言えば伝わるだろうか。ただ作曲科志望に関しては、意外に下のクラスにも見かけることがありました。楽器専攻とは異なるスタンスである、この専攻の特長が分かる状況でしょうか。僕がもっとも恥ずかしかったこと。それは自分のピアノがあまりに初歩の段階であり、周囲からピアノが副科だと思われていたことです。副科とは例えばトランペットとか声楽などでもピアノは必須ということで、まあこれで音大を不合格になった!と言う話は僕は聞いたことはありませんが、要はソナチネ簡単なソナタを弾ければOKというレベルです。器用なタイプならこのピアノのレベルは1、2年もレッスンしていれば達すると考えられます。しかし、僕はあまりにもピアノが下手でしかも当時さらっていたエチュードチェルニー40番だったところから完全に副科のピアノで、他に専攻があると思われていたのです、これは実にヤバかった!!僕が本当はピアノ科であることが認められたのは、おそらく秋から冬にかけてです。自分を担当してくれた先生が素晴らしかった。恐ろしく厳しかったですが、それでも僕の駄目ピアノを最後まで見捨てることはありませんでした。今でも頭が下がったままです。こうして僕の場合、先生運だけは良いのです。そういうことで僕は何が何だか分からないうちに音大ピアノ科に入ったのでした。その後は色々なところで付焼き刃がバレてエライことになりましたが、この18歳の1年間は得難い経験をさせていただいと思っております。それにしても当時の自分が不思議です。根拠のない自信をどうして持ち続けられたのか?
それは寮生達が皆音大受験という同じ目的を持って励まし合っていたからでしょう。それは温かく、大らかな世界でした。音楽に邁進するための環境、それは程よく世の中と隔絶された埼玉の片隅にありました。
今も父と二人、寮の玄関に立っているところを思い出します。左脇に名札がぶら下がり、不在時は、ひっくり返すのがルールでした。名前の下に専攻が分かるように例えば、トロンボーンなら「tb」、トランペットなら「tp」そしてピアノなら「p」と表記しております。遠い昔に寮は解体されましたが、あの上京初日の景色はしっかりと心に刻まれています。

M先生は今も心配しているのか?

「ベートーベンの後期三大ソナタ?十年早いよ!君には」
先生はそう言ってクスクスと笑った。

暗い畝裏。
斜め上から眺める自分はまるでドローンに乗っているようでもある。
左手向こうには大きな川が流れているのが分かるが、今ひとつ実態が掴めない。
堤防の内側には無数の平屋が規則正しく立ち並んでいるが、そこに人間的な営みは感じられない。
とにかく暗く、空気が淀んでおり目を凝らしても実像を捉えることが出来ない。
トボトボを道を歩いて行くと、しかしその平屋の一見にボンヤリとオレンジ色の灯りが灯っているのが見えて来る。
自分がそこに向って行くことが必然であり、予め決められたことのようでもある。

随分古いタイプの玄関ではある。
ガラガラと横に移動するタイプの木枠は、昔実家が平屋だった頃を思い出させる。
躊躇なくドアをあけると、薄暗い廊下の奥からM先生が歩いて来る。
ふと自分が鞄を持っており、その中に楽譜が入っていることを確信する。
楽譜はおそらく譜面の感じからシューマンであろうと、もう一人の自分が判断している気配がする。
先生は「やあ、、!どうだ調子は?」とあの懐かしい口調で声をかけてくる。
応えられないでいると「さあっ、さらおう、今日はどこから?」などと聞いて来る。
もう一人の自分が「今はもうクラシックは弾かないのです。クラシックピアノは僕の中では、、僕の中では、、僕の中では、、」とフィードバックが鬱陶しく続いて行く。
しかし、先生に対面する僕は、全く応えられない。
何か言葉を発しようとするが、先生の姿を見ていると何も言えなくなる。
ふと気が付くと、僕はやはり斜め上から川(のようなもの)の流れを見ている。
そして立ち並ぶ平屋の黒々とした影の中に、ポツンと一点オレンジ色の灯りが見えるのだった。

これは数年に一度ほど見る夢の内容です。不思議なのですが、細かいデティールは違うのですが、大体はこんな内容です。
登場人物は僕以外ではただ一人。M先生ということになります。
先生は恩師です。僕が音大3年生の時にお亡くなりになりました。
僕には分不相応な立派な方でしたが、夢の中でも立派なのには呆れます(笑)
嫁にこの夢のことを伝えると「心配しているんだよ」と。
何故か涙を堪えることが出来ない自分でした。

*冒頭で紹介しているアルバムはポリーニのベートーベン・ソナタ第13番となります。これは音大1年時の課題曲で調度その学期末の頃、妹が受験で上京して来たのを覚えております。ピアノを四畳半に置いて、狭いスペースに気にもせず寝泊まりしておりました。たまに再会すると、僕が如何にこのベートーベンをさらっていたか、、と懐かしいようです。久しぶりに聴いてみると意外に難しいですね。あの頃のピアノ科としては恥ずかしいテクニックの自分としてはよく弾いたものだと思います。頑張らなかった、、ということはない。今はそういう悲しい方向に考えないように(ようやくですが)なりました。結構頑張っていたのだ、そしてあの結末はやはり仕方なかった。無理があったのだ、、と素直に受止めている昨今の自分です。

バスを待つ少年-1969

10歳。小学校4年生。
"バス"
「小山のように大きな、僕の友達」

10歳と言えば、4歳に発症した小児喘息がようやく終焉に向かった1年ということになる。
あれから40年以上経った今でも、その呼吸の重苦しさが心に刻まれている。
父が職員アパートに引越したのは家族にとって幸福なことではあった。
しかし、子供二人が喘息になってしまった(妹の喘息は比較的軽度だったが)のは本人達は無論のこと、父母にとっては更に痛かったに違いない。
東北の企業都市と言われたこの町。海岸に沿う地区から始まる大きな面積を新日鉄の工場群が覆っている。

林のように乱立する煙突から吐き出される、白色、灰色、そしてオレンジ色の煤煙。僕は長い間、喘息の原因が公害にあると思い込んでいた。が、そうではない。
職員アパートの建装材にやられたのだ。
実家では既にそういう結論に落ち着いているし、正しい着地点と言える。高度経済成長の真っ只中、今では考えられないような素材が使われていた可能性だってあるかも知れない。数々の検査からハウスダストによるものと病院から伝えられたが、住居内に要因があるところはともかく当時の医学の限界から少々方向を間違えていたのではないか?と考えられる。
さて、遅いタイミングではあったが製鉄所病院は(小児喘息のための)クリニックを小児科内に設置することになる。この町が当時「公害指定都市」に指定されていたことを気にしたのかも知れないし、社員の家族や組合からの突き上げがあったのかも知れない。数年間苦しみ抜いた挙げ句、9歳の夏1ヶ月間の入院生活を送った僕などは格好の実験材料であり1週間に1回というタイトな日程で病院通いすることとなった。この市民の呼称である「製鉄所病院」まではバス通いであり、そこそこな距離を耐えなけれなならなかった。退屈極まりない移動時間の心の支えは自然「バス」ということになるのである。そもそも乗り物が好きだったので、そのバスという巨大な移動物体にのめり込むのは必然でした。

まず、バスの形状が大切なこととなる。この当時の町のバス会社は1社のみ、IKBとマークの入った「岩手県南バス」だったが、台数不足なのか資金不足が理由なのか、様々なメーカと中古で引き取った個体もあったように思う。サイズも車体のデザインもバラバラで、それが何とも楽しかったのである。車体は白を下地として赤のストライプ、全面グリルは両側ヘッドライト周りを円で囲むように赤で塗られ、その赤い部分がストライプとして後ろ側に続いていく。なかなかオシャレなデザインだと今でも思う。このカラーリングから来る全体のイメージがお気に入りの要素のひとつ。

次は何と言っても運転席、ダッシュボードの肝!「スピードメータ」となる。このメータと運転手さんの挙動との正確無比なる連動の世界。そこに子供ながら同期(シンクロ)というものの魅力を感じていたに違いない。当時のメータは精度に怪しいところがあり、細長い葉っぱのような可愛いデザインの針が加速していく20km、30kmでユラユラと落ち着かなかったのを覚えているが、僕としてはそのタイムラグまた魅力に感じていたのである。運転手が二度クラッチを踏みつける「ダブルクラッチ」、そこで絶妙な間を持ってギアを入れる、そんな時この針は「あの、、僕、、どこを指したら良いの?」とばかりに揺れ動く。自分にとって、にとってこれほど面白い世界はなかった。

次にバスの窓ガラスの切り方、そのデザイン性である(きりない、、!)この運転席脇の窓ガラスがオシャレに少し「くの字」型に角度を付けてあるバスが、位が高いのである。バスの世界にカースト制度?を取り入れていたのである。まっすぐ直角に枠切りしたタイプが多い中で、この「くの字」に切っているバスは、リア窓もまた特徴があり、それは大きく二つに(柔らかなラウンドを描く)区切った窓ということになる。これはネットで調べると昭和30年代初期辺りでは、各地ローカルなところでよく見かける形状である。この2、3つに区切られている窓はその四隅が柔らかな角度にラウンドを設けてありそれがまた今は無い温かなイメージを感じさせるところだ。そして新しくなってくると、おそらく強度が得られるようになったのかガラス1枚で通したものが殆どとなる。現在その辺を走っているバスもそのタイプ。このオタクな少年がバスから気持ちを遠ざける「ピアノ」と出会うのはそれから数ヶ月後のこととなる。

医師が慎重に免疫注射に入れる薬剤の量を決定する。それは確実に、微々たるものになりつつある。喘息日誌に母が毎日記入した項目(胸から音がしていないか、肩で息をしていないか、熱はないか等多岐にわたる)を精査し、そこから医師なりの見立てにつなげていく。「次から二週間に一度で良いかな、、今日は吸入も要らないね」そう言われると自分が健康を取り戻して行くのが感じられて嬉しかったものだ。
病院の前には停留所がある。そこでバスを待ちながら、妹のために買ったアップライトピアノをピアノを自分も弾いてみたいこと、体育の授業で走り幅跳び3m30cm飛んで「陸上記録会に出ようか?」先生に言われたこと。クリスマスの飾りつけが気になること、雪が降ったら父にスキーに連れて行ってもらうこと、、自分の小さな未来を信じて疑わなかった少年が喘息日誌片手に思い巡らせておりました。

帰省するとこのバス停の前を通ります。当時の人口の半分にも満たない錆びれた街。車の窓から眺める停留所は待つ人もないのですが、そこに10歳の自分がバスを待っている姿が見える気がします。

そして、、こんにちわ!ってことか?

「スッキリした気持ちで続ける必要がある」

てなことで、今また記事をチェックして関係のない蛇行記事?は躊躇なくバシッと削除しました。

記事だけを一発で全消去するファンクションを探したのだけれど、見つからず意外に時間を要してしまいました。
右フレームのサイドバー最初の記事を書いてみましょう、、と在る。
それが新鮮に目に映る。
このブログのタイトルは「あるピアニストの呟き」と付けたのだけれど、気分に任せて、またその時々の都合や気分で適当に書いている?うちに当初描いていたブログイメージから遠いところまで来ていることに気が付いたのだ。
振り出しに戻ってみようと思う。
音楽に使用するイメージの洗い出し。
作曲につながる要素の在処は過去に遡る。殆どの作り手は過ぎた時間を手繰り寄せるのではないだろうか?
文字として記録していくことで、その一齣の解像度が上がってより鮮明になる。
彼のホーキング博士によれば「タイムスリップに関して未来への移動と比して過去への移動は難しい」ということになるらしい。

しかし、人間には記憶という素晴らしい装置があるのだ。
その装置から引っ張り出したデータを脳内フィルターにかけることから音楽のテーマ構築がスタートする。音に変換された過去のイメージには当然バイアスがかかり何やら得たいの知れない音楽というモノに変容して差し出されるわけだけれど。
作曲の楽しさはそのプロセスに在るわけで、僕はその元となる素材をこのブログで洗い出して行こうと思う。

もっとも遠い景色は、母の背中で聴いた童謡だが、それは何と仄暗く独特な温かさを携えていることだろう。
こうした小さな記録映画のような素片を拾い集めて整理して行くことになります。