あるピアニストの呟き - カワサキタカヲ3動向 -

ピアノトリオ「TAKA3」の関連記事を中心に音楽雑記帳としております。

温かな景色・忘れられない日

丘陵の側面に建てられた寮の門前に停めてあるのは父の白いコロナだ。
東北の片隅を朝6時30分頃に出発して、ようやく到着したところ。トランクには寮で使う布団一式が入っている。時刻は夕暮れには少し間がある15時頃だっただろうか。
素晴らしくよく晴れた僕の記念すべき上京初日。
寮監督(後に寮生達からは略称で「寮監」と呼ばれていたが)に挨拶した父と僕は、練習館を見学するために棟の後ろ側ドアから丘に沿って上る通路を歩いて行く。練習館は一部屋にアップライトを押し込めて、自分が座るとスペースは殆ど無いほどの狭さで、父は「これはまるで独房だな」とブツブツと呆れる。その独房が左右にそれぞれ10部屋程度用意されていただろうか。結局ここで1年間、音大に入るために自問自答することになるのだけれど。
何しろ、僕はすっかり圧倒されてしまい早々に立ち去りたい気持ちで溢れかえっていた。練習館を後にして坂を下りて来ると、途中で同じく見学に来たらしい母親と青年が歩いて来た。父はその母親と立ち話をしていたが、その時どっしりとした体格の彼が寮監督に向って「あの、、練習してもいいですか?」と切り出した。上京して早速微かな敗北感を味わうことになり「こういう積極的な態度って音楽家には必要な要素なのかしら?」と妙に心がざわついた覚えがある。
僕の寮生活は1年だった。
この音楽院に入る直前に受けたソルフェージュのテスト、つまり聴音とか新曲視唱、楽典等の結果はヒジョウに分かりやすく全て一番下位。スピードスケート・高木美帆さんの最初のオリンピックと同じである。その後の面接で聴音の点数「4点」の内容を聞くと「可哀想だったので小節線を書いた点数をあげたよ」と言われたのを憶えている(笑)
そして「この1年一度のグレード分けテストでは君のようなタイプが数人いるんだよね。でもここで1年持ちこたえればS音大くらいには入れるから、、」と伝えられた。もう何が何だか分からない世界。結局このグレード制を採用する最低ライン・Eクラスからスタートした僕は、夏休みで帰省した頃には、しっかりと10円ハゲを作っており(円形脱毛症)田舎の床屋さんを驚かせました。
ピアノ科でEクラスという話は希である。現在のことは知らないけれど、当時ソルフェージュの成績は専攻によってキレイに分かれていた印象です。大変失礼で申し訳ないのだけれど、下に集合しているのが管楽器と声楽の連中だろうか。少し上がって、管楽器でも少しばかり優秀な生徒、そして全体の真ん中レベルにあたるCクラスにピアノ専攻が多く、A/Bという教える側の先生の間違いをバカにするレベルがバイオリンなどの弦楽器専攻と作曲科志望というところだったと思う。ただ作曲に関して何となく分かると思いますけれど、見事にどのクラスにもまんべんなく散らかっており、楽器専攻とは異なるスタンスであることが分かる状況となっておりました。僕がもっとも恥ずかしかったこと。それは自分のピアノがあまりに初歩の段階であり、周囲からピアノが副科だと思われていたことです。副科とは例えばトランペットとか声楽などでもピアノは必須ということで、まあこれで音大を不合格になった!と言う話は僕は聞いたことはありませんが、要はソナチネ簡単なソナタを弾ければOKというレベルです。器用なタイプならこのピアノのレベルは1、2年もレッスンしていれば達すると考えられます。しかし、僕はあまりにピアノが下手でしかも当時さらっていたエチュードチェルニー40番だったところから完全に副科のピアノで、他に専攻があると思われていたのですね(笑)これはヤバかった!!僕が本当はピアノ科であることが認められたのは、おそらく秋から冬にかけてです。自分を担当してくれた先生が素晴らしかった。恐ろしく厳しかったですが、それでも僕の駄目ピアノを最後まで見捨てることはありませんでした。今でも頭が下がったままです。こうして僕の場合、先生運だけは良いのです。そういうことで僕は何が何だか分からないうちに音大ピアノ科に入ったのでした。その後は色々なところで付焼き刃がバレてエライことになりましたが、この18歳の1年間は得難い経験をさせていただいと思っております。それにしても当時の自分が不思議です。根拠のない自信をどうして持ち続けられたのか?
それは、おそらく寮生達が皆音大受験という同じ目的を持って励まし合っていたからだと思います。それは温かく、大らかな世界でした。音楽に邁進するための環境ということでしょうか。
今でも父と寮の玄関に立っているところを思い出します。左脇に名札がぶら下がり、不在時は、ひっくり返すのがルールでした。名前の下に専攻が分かるように例えば、トロンボーンなら「tb」、トランペットなら「tp」そしてピアノなら「p」と表記しております。遠い昔に寮はなくなりましたが、あの上京初日の景色はしっかりと心に刻まれています。

M先生は今でも心配している、、のか?

暗い畝裏。
斜め上から眺める自分はまるでドローンに乗っているようでもある。
左手向こうには大きな川が流れているのが分かるが、今ひとつ実態が掴めない。
堤防の内側には無数の平屋が規則正しく立ち並んでいるが、そこに人間的な営みは感じられない。
とにかく暗く、空気が淀んでおり目を凝らしても実像を捉えることが出来ない。
トボトボを道を歩いて行くと、しかしその平屋の一見にボンヤリとオレンジ色の灯りが灯っているのが見えて来る。
自分がそこに向って行くことが必然であり、予め決められたことのようでもある。

随分古いタイプの玄関ではある。
ガラガラと横に移動するタイプの木枠は、昔実家が平屋だった頃を思い出させる。
躊躇なくドアをあけると、薄暗い廊下の奥からM先生が歩いて来る。
ふと自分が鞄を持っており、その中に楽譜が入っていることを確信する。
楽譜はおそらく譜面の感じからシューマンであろうと、もう一人の自分が判断している気配がする。
先生は「やあ、、!どうだ調子は?」とあの懐かしい口調で声をかけてくる。
応えられないでいると「さあっ、さらおう、今日はどこから?」などと聞いて来る。
もう一人の自分が「今はもうクラシックは弾かないのです。クラシックピアノは僕の中では、、僕の中では、、僕の中では、、」とフィードバックが鬱陶しく続いて行く。
しかし、先生に対面する僕は、全く応えられない。
何か言葉を発しようとするが、先生の姿を見ていると何も言えなくなる。
ふと気が付くと、僕はやはり斜め上から川(のようなもの)の流れを見ている。
そして立ち並ぶ平屋の黒々とした影の中に、ポツンと一点オレンジ色の灯りが見えるのだった。

これは数年に一度ほど見る夢の内容です。不思議なのですが、細かいデティールは違うのですが、大体はこんな内容です。
登場人物は僕以外ではただ一人。M先生ということになります。
先生は恩師です。僕が音大3年生の時にお亡くなりになりました。
僕には分不相応な立派な方でしたが、夢の中でも立派なのには呆れます(笑)
嫁にこの夢のことを伝えると「心配しているんだよ」と。
何故か涙を堪えることが出来ない自分でした。

バスを待つ少年-1969

10歳。
小学校4年生。
"バス"という乗物が好きだった時代。
10歳と言えば、4歳からの小児喘息がようやく終焉に向かった1年ということになる。
あれから数十年経った今でも、その呼吸の重苦しさが心に刻まれている。
父が出世して職員アパートに引越したのは家族にとって幸福なことではあった。
しかし、子供二人が喘息になってしまった(妹の喘息は比較的軽度だった)のは実に痛かった。
東北の企業都市と言われたこの町。海岸に沿う地区から始まる大きな面積を新日鉄の工場群が覆っている。

林のように乱立する煙突から吐き出される、白色、灰色、そしてオレンジ色の煤煙。僕は長い間、自分の喘息の原因がこれにあったと信じていたが実は違う。
引っ越し先の職員アパートの建装材にやられたのだ。
実家では、すでにそういう結論に落ち着いているが正しい着地点と言える。高度経済成長の真っ只中、今では考えられないような素材が使われていた可能性だってあるかも知れない。数々の検査からハウスダストによるものと病院から伝えられたが、住居内に要因があるところはともかく少々方向を間違えていたのではないか?と思う。
さて、しかし遅いタイミングではあったが製鉄所病院は(小児喘息のための)クリニックを小児科内に設置することになる。この町が当時「公害指定都市」に指定されていたことを気にしたのかも知れない。数年間苦しみ抜いた挙げ句、9歳の夏1ヶ月の入院生活を送った僕などは格好の実験材料であり(笑)1週間に1回というタイトな日程で病院通いすることとなった。父母からすれば藁にもすがるような思いだったのではないか、と想像がつくけれど。この市民の呼称である「製鉄所病院」まではバス通いであり、そこそこな距離を耐えなけれなならなかった。退屈極まりない移動時間の心の支えは自然「バス」ということになるのである。そもそも乗り物が好きだったので、そのバスという巨大な移動物体にのめり込むのは必然でした。

まず、バスの形状が大切なこととなる。この当時の町のバス会社は1社のみ、IKBとマークの入った「岩手県南バス」だったが、様々なメーカから車両を買い入れするようで(中には中古で引き取った個体もあったように思う。)サイズも車体のデザインもバラバラで、それが何とも楽しかったのである。車体は白を下地として赤のストライプ、全面グリルは両側ヘッドライト周りを円で囲むように赤で塗られ、その赤い部分がストライプとして後ろ側に続いていく。なかなかオシャレなデザインだと今でも思う。このカラーリングから来る全体のイメージがお気に入りの要素のひとつ。

次は何と言っても運転席、ダッシュボードのスピードメータとなる。このメータと運転手さんの挙動との正確無比なる連動の世界。そこに子供ながら同期(シンクロ)というものの魅力を感じていたに違いない。当時のメータは精度に怪しいところがあり、細長い葉っぱのような可愛いデザインの針が加速していく20km、30kmでユラユラと落ち着かなかったのを覚えているが、僕としてはその不正確なところもまた魅力に感じていたのである。運転手が二度クラッチを踏みつける「ダブルクラッチ」、そこで絶妙な間を持ってギアを入れる、そんな時この針は「あの、、僕、、どこを指したら良いの?」とばかりに揺れ動く(笑)子供にとってこれほど面白い世界はなかったのでした。

次にバスの窓ガラスの切り方、そのデザイン性である(きりない、、!)この運転席脇の窓ガラスがオシャレに少し「くの字」型に角度を付けてあるバスが、位が高いのである。まっすぐ直角に枠切りしたタイプが多い中で、この「くの字」に切っているバスは、リア窓もまた特徴があり、それは大きく二つに(柔らかなラウンドを描く)区切った窓ということになる。これはネットで調べると昭和30年代初期辺りでは、各地ローカルなところでよく見かける形状である。これが3つに切られているもの、そして新しくなってくると、おそらく強度が得られるようになったのかガラス1枚で通したものが殆どとなる。現在その辺を走っているバスもそのタイプ。そういうことで、このオタクな少年はバスに大まかな位を付けていたのである。頭が暇な少年にありがちなオタクぶりである。

医師が慎重に免疫注射に入れる薬剤の量を決定する。それは微々たるものになりつつある。喘息日誌に母が毎日記入した項目(胸から音がしていないか、肩で息をしていないか、熱はないか等多岐にわたる)を精査し、そこから見立てにつなげていく。「次から二週間に一度で良いかな、、今日は吸入も要らないね」そう言われると自分が健康を取り戻して行くのが感じられて嬉しかったものだ。
病院の前には停留所がある。そこでバスを待ちながら、妹のために買ったアップライトピアノを自分も弾いてみたいこと、体育の授業で走り幅跳び3m30cm飛んで「陸上記録会に出ようか?」先生に言われたこと。クリスマスの飾りつけが気になること、雪が降ったら父にスキーに連れて行ってもらうこと、、自分の小さな未来を信じて疑わなかった少年が喘息日誌片手に思い巡らせておりました。
田舎に帰るとこのバス停の前を通ります。車の窓から眺める停留所は待つ人もないのですが、そこに少年の自分が向かってくるバスを待っている姿が見える気がします。

そして、、こんにちわ!ってことか?

スッキリした。
これまでの記事を全消去。
記事だけを一発で全消去するファンクションを探したのだけれど、見つからず意外に時間を要してしまいました。
右フレームのサイドバーに最初の記事を書いてみましょう、、と在る。
それが新鮮に目に映る。
このブログのタイトルは「あるピアニストの呟き」と付けたのだけれど、気分に任せて、またその時々の都合で適当に書いている?うちに無意識に当初描いていたイメージから遠いところまで来ていることに気が付いたのだ。
振り出しに戻ってみようと思う。
音楽に使用するイメージの洗い出し。
作曲につながる要素の在処は過去に遡る。殆どの作り手は過ぎた時間を手繰り寄せるのではないだろうか?
こうして記録していくことで、その一齣の解像度が上がってより鮮明になる。
彼のホーキング博士によれば「タイムスリップに関して未来への移動と比して過去への移動は難しい」ということになるらしい。

しかし、人間には記憶という素晴らしい装置があるのだ。
そして音楽はその装置から引っ張り出したデータを脳内フィルターにかける。音に変換された過去のイメージには当然バイアスがかかり何やら得たいの知れない音楽というモノに変容して差し出される。
作曲の楽しさはそのプロセスに在るわけで、僕はその元となる素材をこのブログで洗い出して行こうと思う。

もっとも遠い景色は、母の背中で聴いた童謡だが、それは何と仄暗く独特な温かさを携えていることだろう。
こうした小さな記録映画のような素片を拾い集めて整理して行こうと思います。